{大嶺の発祥に関する言い伝え}
大嶺の発祥については定かではないが、古老の言い伝えによると、初めて大嶺に住みついた人は玉城村仲村渠(現南城市)のミントンの子孫ではないかという。
このミントンには三人の男の子がいた。長男は家を継ぎ、次男、三男はそれぞれ独立した。三男の息子夫婦に長男が生まれた頃に戦が起こり、この戦で三男の息子はクラシン御門において戦死した。これを知った妻子は玉城を逃れて、大嶺近くの瀬長島に落ち延びて、身を隠したという。その後戦も終わり、平和になったので妻子は瀬長島を離れて大嶺に住みついたという。しかし、その子孫は二代まで続いたが後継がなく、大里村(現南城市)の大城という所の三男が養子にはいった。そして、その養子には二人の子供ができたが、この二人も戦で死んだという。その後、死んだ次男の子が立派に成人して字当間の上堀川の婿になり、三人の男子ができた。その長男が具志川、次男が後上間、三男が平良を名のった。これらの人達の子孫が繁栄して、現在の大嶺ができたと伝わる。
{大嶺の地名}
大嶺の地名の由来は定かでないが、これはたぶん地勢、地形によるものと考えられる。
すなわち、饒平名浩太郎著『沖縄農民史』の沖縄の地名の構成によると「大嶺、仲嶺、小嶺の嶺は岡阜に通じ、高く標識となる項」となっている。私達の大嶺昔から大嶺平野と呼ばれるぐらい平坦地であったことからして、大きな岡(嶺)から転じて「大嶺」となったのではなかろうかと思われる。